こんにちは。
旅レポートの続きです。
今回の中東放浪では、トルコ→イラン→UAE→オマーン→サウジアラビア→ヨルダン→エジプトとイスラム教を信仰する国々を巡ってきました。
数年前から、常勤の医師を辞めたタイミングで行きたいと計画を練っていました。それがやっと叶うときに、イスラエル・パレスチナでの戦闘が起こりました。
出発まで情勢を見ながら、外務省が出す安全情報や、現地の方々の状況を判断し、結論として予定どおり出発をしました。
同じイスラム教の信仰国でも、宗派や、戒律の厳しさはさまざまでした。
イランは旅行者の女性にもヒジャブを被り、頭を隠すことを義務付けられています。現地の知人と一緒にいるとき、私のヒジャブが風で頭から落ちてしまうと、「ここら辺は宗教警察官が多いから、ヒジャブをしっかりかぶって欲しい」とお願いされたこともありました。
サウジアラビアは、国民の女性には顔まで覆った全身黒ずくめのアバヤの着用が義務付けられていますが、外国人旅行者は過度の露出がない服装程度で、頭を隠すことも強要されません。欧米人の旅行者は、一般的な国の旅行をする際の装いです。私は、イランで使っていたヒジャブをかぶっていました。
私には、決まった宗教はありません。日本人として生きているので、文化的には、仏教、神道に影響された生活をしていると思います。私には神様はいません、自分の心を信じます。
だけど、誰かが信じている神様はリスペクトして、失礼のないようにしたいと思っています。
サウジアラビアに来て、やはり、これまで訪れたイスラム教の国よりさまざまな場面で戒律が厳しく感じました。
皆さん、脇目も振らず、いつでもどこでも熱心にお祈りされます。
ガソリンスタンドには、必ずと言っていいほどモスクがあります。入り口にある蛇口で手足を清めてからモスクに入って行かれます。
でも女性はそのモスクに入っていくことはありません。トイレの横に小さな小部屋があり、それが女性用モスクというのでしょうか。とにかく、モスク本堂(?)には入ることができないのです。女性の私としては、同じ神を信じて祈っているのにどうして一緒の場所で祈れないのか、、、などと思ってしまいます。
お祈りの時間になると、モスクではない場所でも、絨毯を広げ、メッカの方向を向いて祈り始めます。ジープでのツアーに参加している時も、ドライバーさんは私たちに数分間待つように伝え、お祈りしていました。
サウジアラビアのホテルのクローゼットには、コーランとお祈り用絨毯が必ずと言っていいほど置いてあります。
室内の壁や天井には、メッカの方向を指す矢印が必ず書いてあります。
(大きさもさまざまでどこにあるか探すのがホテルに着いた時の楽しみにもなってました)
レストランでは、男性が入れるシングルセクションと、女性とその家族が入れるファミリーセクションが別れています。
ファミリーセクションにはテーブルの一つ一つが個室になっていたり、カーテンで覆われたりしていて女性が見えないようになります。
ファストフード店ですら、入り口が別れています。こちらはファミリーセクションの入り口。
私は、黒い長袖を着て過ごしていましたが、とにかく日差しが当たると熱いです。無意識に二の腕まで捲り上げていることもしばしば。頭を隠すヒジャブも、首に絡まって何度か首が閉まりそうになりました。
女性だけで外に出ることができないし、運動には一切適さないアバヤを着ているせいか、女性は肥満で、膝を痛そうに歩く人が非常に多く感じました。
一つ前のブログにも記載しましたが、サウジアラビアではつい数年前まで女性は車の運転もできませんでした。
非ムスリムの女性である私にはとても窮屈そうで、私は絶対ムスリムにはなれないと感じていました。ムスリムの女性はなぜこんな生活を受け入れているのだろうか、、、と純粋に疑問に思うのです。
しかし、イスラム教徒にとって第二の聖地であるメディナの街を訪れた時、理解した、とは違うのですが、ストンと納得した、というより、納得せざるを得ないと感じたのでした。
メディナは、2022年に非ムスリムにも開放されました。
それまではメッカ同様に、イスラム教徒しか入ることのできない街でした。
現在もメッカにはイスラム教徒しか入ることができません。メッカから30キロ地点にあるガソリンスタンドに入ったのですが、そこには明らかにこれから巡礼に行く装束を着た方々がいました。
彼らは私たちにアラビア語で話しかけてきました。「メッカには入るな」と言っているようでした。その後今度は、宗教警察の方に声をかけられ、バスポートチェックをされ、英語で「メッカには入らず、迂回路を通るように」と注意されました。
高速道路には、Muslim onlyの文字。
非ムスリム用の迂回路があります。私たちはこちらの迂回路を通らねばならず、メッカの街の様子は伺うことができません。
一方メディナは、非ムスリムでも街の中に入ることができ、ホテルにも宿泊できます。
メディナが第二の聖地と呼ばれるのは、預言者のモスクがあるからです。
預言者のモスクは預言者のムハンマド自身により、自身の住宅に隣接して作られたモスクです。ムハンマドの霊廟でもあります。一度に100万人の信者が祈ることができます。
モスクの中には、イスラム教徒しか入ることができません。
メディナで泊まったホテルの受付の方が、「そこらへんのお土産屋さんでアバヤを買って着用したら、モスクの敷地内にも入れる」と親切に教えてくれました。でも私は、非ムスリム。ずるしてまで入りたいとは思いません。
祈りの合図、アザーンがなる少し前から、街なかの人々は同じ方向に歩き始めます。皆、モスクに向かうのです。
各国から巡礼ツアーでやってきている団体もたくさんいて、同じキャップを被ったり、同じポーチを持っていたりしています。
いくつもある入り口から吸い込まれるように信者の方がモスクに入場していきます。モスクの敷地内の広場には、信者を強い日差しから守る巨大な日傘が立っています。まるで蝶のはねのようです。
モスク自体は遥か遠くにあり、敷地の外にいる私たちには見ることができません。
(祈りの時間の間の人混みが途切れた時の写真、モスクの外観は見る頃ができました。敷地の外から)
モスクの中に入ることができない人々が中庭で祈っています。その中庭にも入れず、敷地の外で祈り始める方々もいます。
皆、メッカの方向を向き、同じ動きをしながら熱心に祈っているのです。
その光景が、神々しすぎて、鳥肌が立つほどです。
そしていのりを終え、モスクから出てきた人々の顔が、とても幸せそうで、満たされているような温かい表情なのです。
その様子を見たときに、私はイスラム教徒の戒律について抱いていた疑問や感情は、このまま受け入れることしかできないと理解したのです。私たちには理解できない不自由で窮屈な戒律も、彼らにとってみれば、アラーの元に近づくためであり、むしろ喜びなのかなと。このモスクに巡礼することは、今世においては一大イベントで、そのためにはムスリムではならなくて、ムスリムであるためには戒律を守らないといけないわけで。。。
私がこの旅行中に感じた不自由さに対するストレスに似た違和感のような心のしこりは、ストンとどこかに落ちて消えていきました。イスラム教徒でありたいがために、彼らは人生のすべてを捧げているのだと。
そう思うと、お土産屋さんでかったアバヤでモスクに忍び込むことなんて尚更できないと思うのです。
私たちに、とある男性が声を掛けれくれた。
「どうしてサウジアラビアに来たの?シンプルに不思議だ。」
私は、「自分と違う文化を見ることが好きだから、ムスリムの人に優しくしてもらったことがあるから、イスラムの建築や装飾が美しいから。」そう答えた。
すると彼は、
「世界の人々の多くは、イスラム教のことをよく思っていないことは知っている。だからこそ、今、ここに来てくれたことをとても嬉しく思う。会えてよかった、ありがとう。」
そう言ってくれました。
宗教って本当に難しい。彼の言葉は、私の心に突き刺さりました。
信仰心と、社会からの冷たい視線と。その狭間で苦悩している彼のような人々。
みんな違ってみんないい。お互いをリスペクトして、みんなが幸せな世界を作っていけたらいいなと思います。